歴史探訪~松島城跡を辿って
築城年代や築城者については不詳ですが、箕輪町内の至る所に史跡や城跡といった遺構遺跡があります。
その中でも箕輪町の中心地・松島地区の役場庁舎の敷地一帯は「信濃 松島城」と呼ばれていました。
松島城の築城年代は不明ですが、戦国時代に信濃国守護職(長野県の統治者)であった小笠原信濃守長清の末裔で、小県郡からこの地に来た小笠原系一族の小笠原宗豊が松島城に入り、2代目の小笠原政行が土地の名前から「松島」と氏を名乗ったと伝えられています。
この松島氏は当時、箕輪地域を治めていた福与城主 藤沢頼親(ふじさわ よりちか)の家臣であり、松島城の敷地は東西約200m、南北約300mほどの広さがあったそうです。
遺構は、堀跡と思われるものが少し残っているだけです。
土手構造から推測すると、自然の地形、段丘を巧みに利用して築かれた城だったのかもしれません。
天文年代 (1532年~1555年) 信濃の隣国である甲斐(現在の山梨県)では、武田信玄が甲斐統一を果たし他国への侵攻を開始。
伊那にも攻めこんできた武田信玄を相手に、福与城の藤沢頼親に従い松島氏も抗戦したものの敗れて降伏し、一度は藤沢氏から離れ武田の支配下に置かれたといわれます。
その後、「甲陽軍鑑」「高遠記集成」等の資料によりますと、敵対する木曽氏から呼び出されて、3代目城主の松島筑前守・松島 貞實(まつしま さだざね)は高遠域内にて謀殺されました。
役場庁舎の道を挟んだ西側には、享禄3年 (1530年)、松島城主の菩提寺として曹洞宗 明音寺を開創した2代目・松島城主 小笠原政行 (松島政行) とともに、3代目・松島城主 松島貞實 親子の墓域があります。
そして、度重なる武田軍の伊那侵攻も徐々に勢力が増してきた弘治2年 (1556年)、信玄が川中島合戦に出陣した情報を得た伊那諸士らは、武田氏の支配から郷土を守るために、共に団結して武田信玄の娘の嫁ぎ先であった木曽義昌を攻撃し謀反を起こすものの失敗に終わり制圧されました。
その中心人物で、松島城と関わりのあった、松島豊前守・松島 信久(まつしま のぶひさ)を含む8人の首謀者は捕えられ伊那市狐島にて処刑後、松島城は放火され廃城になりました。
その後、伊那市長谷黒河内の住民勇士が、ひそかに狐島に赴き8人の亡骸を持ち帰り丁重に葬り、昭和50年に当時の長谷村主催のもと村民の賛同と協力によって「八人塚」として祀る碑が建立されたようです。
なお、小笠原系松島氏の4代目当主・小笠原貞基は、松島城が廃城になったとき、徳川家を頼りに一族そろって遠州・三河(静岡県浜松)へ落ち延びました。
その後、8代目の小笠原基長は、明音寺(松島城主の菩提寺)に所蔵されている「小笠原家譜(15代目・小笠原長孝寄進)」によりますと、浜松藩奉行として活躍されたそうです。
よって、八人塚で英雄となった松島信久は、小笠原家とは違う一族の流れをくむ松島氏だったのではないかと思われます。
また、「伊那武鑑」という資料には、海野氏の分流、矢島肥後守信清の孫である矢島豊後守信久が松島氏と名乗るも武田のためにやられた、とあるようです。
このように、松島氏に関しての諸説は色々とあり、実際はどうなのか不明な部分が多く、今となっては分からないことだらけですが、先人たちが築き守ってきた箕輪の歴史に思いを馳せるのも面白いかもしれませんね。